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岡山県エッセイスト・クラブ クラブ・ニュース 第30号(平成21年10月1日発行) 「名作の風景」 薄田 泣菫
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「名作の風景」 薄田 泣菫(すすきだ・きゅうきん)(倉敷市連島町)
薄田泣菫(本名 薄田淳介)は、明治10年(1877)5月19日、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれる。
父は村役場の書記で、俳諧をたしなんでいた。泣菫も読書好きの大変優秀な少年で、連島高等小学校の当時
から雑誌に詩文を投稿していた。
生家は木造平屋。母屋は南向きで、玄関から式台を上がると四畳半、その奥が五畳の座敷になっている。座敷
に上がると、南からさわやかな風が吹いてくる。この家で多感な少年時代を過ごしたことを思うと、幼き日の泣菫が聞
いたであろう、潮騒の音や雨音が聞こえてくるような気がする。
明治30年(1897)、20歳の時、文藝雑誌『新著月刊』に長短13編の詩を投稿発表、高い評価を得た。この時、
初めて、泣菫の号を用いている。
明治32年、第一詩集『暮笛集』を刊行以来、『ゆく春』、『志ら玉姫』をはじめ、「公孫樹下に立ちて」の詩篇を収めた
『二十五弦』を刊行し、古語や漢語を多用した詩風で、象徴派詩人として、島崎藤村後の明治後期の詩壇を背負
って立った。
明治38年の秋に発表した「ああ大和にしあらましかば」は名詩中の名詩とされ、多くの若者に親しまれた。この詩碑
は、泣菫没後の昭和29年、連島町西ノ浦の厄神社境内に、自筆をかたどって建てられている。自身の母親と泣菫の
妻が親交のあった、松枝喬氏が中心となって建立し、倉敷市に寄付された。
明治39年の詩集『白羊宮』以降、徐々に活動の場を詩から散文へ移していった。大正元年(1912)8月、35歳の
時に大阪毎日新聞社に入社。連載した随筆「茶話」が好評で、随想集も出版。芥川龍之介、菊池寛などの新進
作家を積極的に発掘し、文学界の発展にも貢献した。
昭和20年(1945)10月、連島の生家に帰ったが、9日に死去。享年68。墓所は岡山県倉敷市。泣菫の妻は、
泣菫の死後、大阪の長女のもとに移り住み、生家は人手にわたったが、泣菫の愛していた家だから、できるだけ、
そのまま保存して欲しいとの要望を受け、守られていた。しかし、子の代になり、老朽化が進み、守りきれず、平成10年
より地元住民が要望書を出す保存運動などを受けて、倉敷市が整備。平成15年開館、月・祝日を除き無料公開。
生家の管理、運営は顕彰会。(電話086・446・4830)
久本 恵子(原文のまま)